北
京旅行
(2003年12月)
母と一緒の北京旅行。海外に行くのが今回初めての母の便宜を考えて3泊4日のJTBのツアーに参加した。
中国だったら時差ぼけがないから安心と思っていた日本帰国後二日目からの旅行だった。
時差ぼけ以外の問題が生じるとは思いもせず。。。
北京の壮大かつ絢爛な文明に感動!

あまりにも有名な天安門広場にて
(写真集へは、このページの一番下からどうぞ)
暑い日本!
約4年ぶりの日本帰国。
帰国の際、成田までの
飛行機の中でも、空港についてからも、とにかく暑くてタンクトップだった私。
成田空港の荷物受け取りのところで
も、こんな時期にタンクトップなど来ているのは私だけ。
日頃寒いところに住んでいるせいか、
とにかく暑くて。
たまたまミネアポリスから同じ便で来
た知り合いの女の子に「目立ちますよ、でも暑いですよねえ」と言われ。。。
北京への出発の福岡空港で、また私は暑くなり、タンクトップにな
ろうとした。
すると 「日本ではそんな格好するものではありません。人が変に思うでしょ!」と母からの赤信号。
でももう暑くてたまらず、世間様に申し訳ないのだけど、タンクトップになってしまった。
顔をしかめる母。
北京行きの便の中でも、とにかく暑くてまたタンク
トップになろうとすると、
母から「男性のいる前でそういうことをするものではありません!」と小声で言われ、隣を見ると中年の男性が。
男性の眼よりも自分が心地よくいることのほうが大切なのではと思ったが、
分かってもらえそうになかったので、苦しくてたまらなかったけど我慢した。
こんなことを予測していなかったので、母の満足する半そでのTシャツを持って帰るなどさらさら考えてもいなかった。
北京到着後は、皆が「やはりここは寒いですねえ」と言い合っている中、私だけは薄着。
寒くて乾燥してて、緑が少ないと言っている皆をはたから見ている自分がいた。
「私はもっと寒くて乾燥しているところに住んでいるのだけど」、とも絶対に言えず。
母の気持ち
目立つのが大嫌いな母。
「北九州に住んでいる若い女の子のように振舞いなさい、アメリカのことは一言も人前では話してはいけません。」
とあらかじめ念を押されていたのだ。
だから、私は人前でうかつに自分の普段の生活のことも母に話せない始末。
自分が育った国の人たちと、懐かしさを感じながら、何の違和感もなく普通に接していた私。
アメリカのことは一言も口には出さなかった。
もちろん、北九州に住んでいるかのごとく、自分のことは出来るだ
け話さず、皆の会話に相槌を打っていたのだった。
寒いと言われる冬の北京で私がコートを着ないことあたりから、自意識過剰になってしまっていた母。
旅行中、私が口を開いただけで、アメリカのことを話すのではないか、
日本人らしくないのではないかとピリピリして嫌な顔をするようになった。
「どうしてそんな顔をするの?」 と小声で聞くと、私たちの会話を聞いてもいない周囲の方たちを見渡す始末。(笑)
バスの中で、現地のガイドの方が、北京や中国の社会や文化についてのお話をされたことがあった。
最近の北京での離婚率の上昇について触れていたので、「離婚率は何パーセントですか?」と伺ったところ、
すぐに母は、「そんなことを人前で聞くものではありません!」と顔で合図してきた。
何が悪かったのか分からなかった私は、離婚率は社会のことを知るのに役に立つ情報だと小声で答えると、
「離婚のことなんて人前で話しなさんな。とにかくあなたの言うこと一つ一つがなぜか普通の女の子と違う!」 と不機嫌な顔。
社会全体のことを聞いているだけで、私が離婚したわけではないのに。(笑)
お金を払ってガイドのいる旅行に参加しているのだから、この機会に少しでも中国のことを学んだほうが得ではないかと思ったのだが、
こんなことを言っても母には分かってもらえないだろうと思って黙っておいた。(笑)
こうして、ほぼ4年ぶりの再会だというのに、母と私はお互いにかみ合わずストレスを溜めていった。
私の方は、日本に帰ったらすぐにマーティンに電話して鬱憤を晴らそうと考えるようになった。
そんな母と私に転機が訪れた。
3日目の昼食をとったある公園で、中国の伝統的な琴のような楽器の音色が遠くから聞こえた。
それが、学校で習った、私のお気に入りの歌 "赤い川の谷間" だったので、
つい私は、「お母さん! 赤い川の谷間が聞こえてくるよ。」 と話しかけた。
その時の母の顔は完全に怒っていた。
"赤い川の谷間" がアメリカ民謡"Red River Valley"と知っていた母。(笑)
日本の学校の音楽教育を通過した人なら、多くの人が知っているこの歌にアメリカを見出し、神経過敏になってしまったのだ。
「この曲はみんな知ってるよ」と、誤解を解こうとすると、
「アメリカの歌の話なんて人前で出しなさんな!」と言い、また周囲を見渡す。
私はそれを境に、母に話しかけるのを全くやめてしまった。
しばらくこの状況をどうやって解決したらよいのだろうと考えた。
結局、夜ホテルの部屋に戻ったら、母の私への対応に対しての自分の気持ちや考えていることを伝えることにした。
私の中におそらく見え隠れしている外国生活を、認めたくなかったのかもしれない。
私にとっては、毎日地味に働き、寝て、食べて、遊ぶ、日常生活の場でしかないアメリカ。
旅行の話などではなく、料理や友人や趣味や週末に行くところや職場のことなど、普段の生活の話をしているだけなのに。
むしろ日本と中国の方が、私にとっては、高い航空運賃を出してやってくるバケーションの場所であるのに。。。
母はそう感じていないようだったので、まずそこから分かってもらうことにした。
日本に住んでいないのに、母の思い描く北九州の女の子でいることがどんなに難しいことなのか、
冷静に母に分かりやすいように段階をおって説明した。
無視して何事も起こっていないふりをしたり、曖昧に済ませたりするよりは、大切な母なので、
お互いに自分の意見を話して分かり合いたかったのだ。
しかし、それを聞いた母は、「あんた、本当に気が強い子になったねえ。住む場所の違いかねえ。。」とぽつり。
職場でも私生活でも、もっと強い人だったらと思わされることが多いのに、
どうしてこんなことを言われてしまうのだろうと、何だか訳が分からなくなってしまった。
そして、私の気持ちなど全く分かってなさそうな、母は寂しそうに寝てしまった。
私も、母と分かり合えないもどかしさに、何だか悲しくていたたまれない気分になった。
そして、ここにいても母を悲しませるだけなので、日本に帰ったら、
荷物をまとめて、フライトの予定を変えて、アメリカに帰ろうという考えまでちらつくようになっていた。
何だか言い表せない孤独な気持ちで眠りについた。
ところが、ここが私の素晴らしい母!次の日から、母の私への対応はがらりと変わっていたのだ
ピリピリとしなくなり、私の話をよく聞いてくれるようになった。
もちろん、人の聞こえるところではアメリカの話は全くしなかったのだが。(笑)
さすが、私の偉大なる母!
こうして母と私は関係を改善して、休暇の間、久々の再会を喜び、楽しく過ごしたのである。
ちなみに、日本に戻ってすぐに、まだアメリカに残っていたマーティンに電話して、母とのことを話したら、
日本との関係は君にとって大切なことだから、大変そうだけど、大切にしてねと優しい言葉が返ってきた。
アメリカに戻ってから、親しい日本の友人に話したところ、
「自分のかわいい娘が、もう外国に住んで遠く離れた存在になってしまったことを認めたくなかったのだと思うよ。
どんなに隠そうとしても、外国生活って、言葉や行動のふしぶしに出るものだしね。
それに、外国人のボーイフレンドがいるから、もう日本に帰ることはないかもしれないのは結構確実でしょう。
だから、久々に会えて嬉しかったと同時に、寂しかったんじゃない。」
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